私は 過酷な責務を 母からの長年の愛と
私から母への深い尊敬 感謝 愛を励みに
連日の大変な日常的な介護に 慣れて来た。
医師も真夜中に 電話しても 駆け付けて下さることも 私を更に強く支えて居た。
年賀状のギリギリ出すリミットを超えたが
今年は 迷いながら も 縁起を担いで 手書きで
母の仕事関係者 親戚にだけ 母の部屋で 書いて出した。
ケアマネが 朝から 年末年始の ケアープランを
持参して 母の様子を看に来て呉れた。
なんと 年末年始 毎日 ヘルパーが入り 夜間救急ヘルパーも 入って呉れる。
医師も 年末31日に看護士と 新年 開けて3日に訪問診察してくださる。
私の気持ちを 察して下さり
母の元旦の誕生日を より よい状態で
我が家で 過ごすを スローガンに して呉れた。
私は 更に パワーアップして
母の介護に 全身全霊を尽くして 毎日 3回 抗生物質等 薬を丁寧に きちんとした座位を 母の身体を 柔らかく固定して お食事と トロミ付けの水分を ゆっくり 与え 母の喉元を見ながら ごっくん!の 声がけを繰り返した。
母の検温をしながら カロナールの量も医師の指示で 増やし 上手くアイスクリームにまぜて
介護スプーンで 私は明るい話題を持ち出しながら ゆっくり与えた。
母の隣の部屋で 母にストレスが 掛からぬ様に
母も私も 幼少から観劇していた 宝塚の名曲や クラッシック jazz 私の楽曲も 煩わしくないような音量で 流し続けて居た。
母の痰の吸引は 早朝 食事前 日中 夜間と
回数は 増えていったが 母も つらさを我慢しながら 協力して呉れる様になった。
娘の私は ミスしないように 汗を額に沢山
かきながら 慎重に 痰の吸引を 繰り返し
母の胸苦しさ 呼吸の辛さの軽減を計り
誤嚥性肺炎の 治療に 奮闘していた。
医師も 休日年末年始は 薬局が開いてなく
どこかで 貰える様に 手配して呉れたので
母が 眠っている 間に タクシーで
受け取りに行き 母の食べれそうな スイーツを買って とんぼ返りした。
夜のオムツ交換は 契約した業者スタッフに時々依頼して 私は30分でも ソファーで 身体を横にして
体力温存に努めた。
この様な 気持ちの年末は 初めてだけれど
必ず!! 母を元気にして上げたく
一心不乱に 真夜中も 一人で母を守る日々が続いた。
心配な時には 真夜中でも センターに連絡して介護士さんと 相談したり 来て貰ったり
医師へ連絡して相談したり 母への気持ちは キーパーソンである私を軸に 団結していった。
有り難い 毎日 そう思いながら
母の心に深く寄り添い 床擦れ一つ作らせない事も 私の自信に繋がった。
時には 私はコートを着用し マフラーをして
母へ暖かい寝具を掛けて 母の隣に
ベッドに入りこみ 手を繋ぎ
身体を 擦りながら
母が 私が赤ちゃんの時に 作り 歌ってくれた
オリジナルの子守唄を 私が母に歌った。
母は苦しいながら 私の子守唄に合わせ
一言二言 共に歌って呉れた。
私は 母を守る様に 母を そっと抱き締めながら
何処で 甘えたい気持ちで 母に頬をつけ
母親の薫りを かいでは 幸せに包まれ
パワーチャージをしていた。
やはり母親とは なんて大きな偉大な存在なのだろうか。
お腹の中に 居たから 一心同体だ。
まるで 地球の様な 太陽の様な なくては
ならない偉大なる 愛。
私の生きている限り 母は死なない
介護しながら 人物に祈りながら
私の中で 確信に近い物が 芽生えて居たのだ。